サポーターたより

ダルク徒然草(3)1996年~

アキモ

1996年2月、3ヶ月の無給研修期間を終えて私は東京ダルクの正スタッフになりました。やる気に燃えて、2代目施設長のフミカズさんに「私の仕事は?」と問うても忙しそうに「みんなと遊んでてくれ」というだけで何も教えてくれません。仕方なくミーティングの司会とそれ以外はメンバーと遊ぶことが私の仕事になりました。先輩スタッフが4人いましたが皆それぞれの特性を生かした仕事をしていました。

施設長のフミカズさんは多動傾向で内に外にせわしなく駆けずり回っています。「お金がないお金がない」と騒ぐ会計のフジイさんに突き上げられ、慢性的な資金難を解消すべく日々奔走し、ダルクに戻ってくると休むことなく会議やミーティングの司会をこなし、利用者の話にもしっかりと耳を傾ける、本当によく働く人でした。彼の魅力はその類い稀なるリーダーシップにありました。

ミナスさんは人当たりがよく温厚な人柄で、メンバーの誰もが癒しを求めて彼の周りにやってきます。まだ2年ぐらいしかやめていないのに10年ぐらいやめているかのような落ち着きがありました。アナログ人間が多いダルクにあって早くからデジタル化を志向し、どこからか手に入れたのか画面が10インチしかない古いマックを使いこなし、ニューズレターや案内を作成していました。古い機種だったのでカラー印刷一枚するのにひと晩かかるという代物に悪戦苦闘しながら、ダルクの広報関係の仕事に持ち前のセンスを発揮していました。

アスカさんはとても誠実な人で、薬物も真面目に使い続けましたが仕事ぶりも隙がなくきっちりとこなします。独特の関西弁が場の空気を明るくする人でした。クリーンになるまで人一倍時間を要し、クリーンになってからもセカンドアディクションに苦しめられていましたが、だからこそ誰よりもプログラムや12ステップに前向きに取り組んでいました。
仕事の面では、経理ができるという依存症業界では貴重な才能が開花しようとしていました。

リュウさんはとても面白い人でした。9時に出所してお昼に1時間昼寝をし、17時きっかりに退所するというルーティンをずっと曲げなかった人で、何が起ころうがお構いなく一切残業はしませんでした。たとえば夕方、メンバーと大好きな変態話に花を咲かせて団らん室を大いに盛り上げますが、時間になると「おっと、こんなところに長居は無用だ」と捨て台詞を吐いてさっさと帰ります。一気に白けてしまいますが、毎日のことなので誰も不快に感じることなく「お疲れさん」と返すのでした。風邪で休むようなこともなく、盆暮れ正月まとまった休みも取らず、365日週休2日で働く人でした。携帯も固定電話も持たず、家の場所も誰も知らないのでリュウさんが無断欠勤した日(後にも先にも20年でこの一回だけでしたが)は皆が心配しました。翌日出勤し「すみません、女にふられて寝込んでしまいました」と頭を下げますが、誰もリュウさんを責めませんでした。

(次回に続く)

掲載日:2018年5月1日