サポーターたより

ダルク徒然草(6)ビトーの思い出 前編

アキモ

初期に関わったメンバーではビトーも忘れられません。明るく人懐こい性格で、リーゼントにバンダナ、袖をまくった白Tにジーンズ姿でのしのし歩き、訛りの強い東北弁が妙に周囲を明るくさせる人でした。音楽好きで、クリスマス会等では大好きな浜田省吾を熱唱し、オリジナルな曲を作っては「聴いて聴いてよ」とテープを配って歩きました。キーボードを弾いたり、ドラムを叩いたりしながらボーカルもこなしますが、聴衆を魅了するほどのものではなく素人感丸出しで、しかし逆にその渾身の一曲を魂込めて歌う姿が大いに場を盛り上げてくれました。

そんな彼の問題は酒とシンナーと暴力でした。定期的に酒を飲んでは暴れ、シンナーを吸ってはドラムスティックを振り回し、あちこちの留守電に「てめえーらぶっ殺す!」と残して、最終的には警察に保護されて入院します。留置所でも保護室でも面会に行くとたいてい体のどこかを怪我しており、しんみりと謝罪の言葉を口にしながら「ほとほと自分が嫌んなるぅ」とうなだれています。「またやり直しだね」と声をかけると「ああ、またよろしくたのむよ」といったやり取りが何度も繰り返されました。ビトーにとって仲間やダルクは港のようなもので、社会という大海原に小さな船を漕いで颯爽と出立し、結局荒波にもまれ、ぼろぼろになって帰ってくる唯一の停泊所でした。

ある夏、九十九里の海岸宿でミナスさんの結婚式がささやかに行われました。当然ビトーも参列するはずでしたが、数日前からリラプス(再発)しており来ることはかなわない状況でしたから、突然原付バイクで現れた彼を見たとき、皆が驚愕ました。原付にガソリンを給油しながら、自分の体にはシンナーを給油しながら、荒川から80キロも離れた海岸にやっとの思いでたどり着いた原付とビトーを見て、私は感動し恐怖しました。

ビトーは文字通り七転び八起きの人で、つぶれてはリハビリして自立し、またつぶれては自立するというプロセスを何度も繰り返していました。ダルクにいながら蕎麦屋やラーメン屋でよく働き、お金を貯めては退寮して一人暮らしをするというのが毎度のパターンで、私もその度に引っ越しや買い物の手伝いをして送り出しました。新しい部屋に移って音楽を聴いたり、彼女を呼んだりして楽しんでいる姿を見て、こちらもほっとするのですが、これが長続きしません。早い時で一週間、長くても6か月ほどでまたいつもの「てめえらコノヤロー」が始まります。ビトーは人一倍の寂しがり屋なので、一人ぼっちの孤独が耐えられなかったのでしょう、いつも一杯の酒からシンナーに走るのでした。そして周りへの電話攻撃が始まります。私も何度、的にかけられたかわかりません。はじめのうちはこちらも頭に血が上って売り言葉に買い言葉で応酬しますが、後になって彼がそのことを全く覚えておらず、とても損した気分になったし、ミナスさんに「メンバーにキレるのは俺たちの仕事ではない」と諫められたので、そのうち相手にしなくなりました。メンバーと遊ぶのが仕事だった私は、彼らと同じ土俵で生活しているうちに、いつの間にかスタッフと利用者という線引きがなくなっていたように思います。だから「てめぇコノヤロー」と言われたら「うるせぇコノヤロー」と返してしまうのです。境界線はあったほうがいいのか、ないほうがいいのかビトーを通してずいぶん考えさせられました。

掲載日:2018年11月1日